2013年4月1日月曜日

音楽に対する思想

本当はあまりいいたくない話だった。

音楽とは何?

「音を楽しむことだよ」
「かっこいいものだよ」
「厳格な芸術だよ」
「クラシックこそ!」
「ロック以外は音楽じゃねえ」
「演歌でしょ」
「ラヴェル以降は音楽じゃない」

いろいろ意見はあるもの。

僕自身は、20年以上考えて、作曲を続けてきて、答えはでていなかった。

「深く考えちゃいけない」
という意見もあった。

「人に左右されない信念を持つべき」
という意見もあった。

「万人に受け入れられないと始まらない」
という意見もあった。

「人が誰もやらない新しいことをすべき」
という意見もあった。

どれもこれも正しい気がするが、全てを同時に受け入れることはできない。
全て性質が違うからだ。

肯定できるものを選んでみよう。
「音を楽しみましょう」
「かっこよくあっていいじゃない」
この二つくらいしか当てはまらない。

音楽は「厳格な芸術」だけではないと思う。
音楽は「クラシックだけ」ではないと思う。
音楽は「ロックだけ」じゃないと思う。
音楽は「演歌だけ」ではないと思う。
「ラヴェル以降も音楽」だと思う。
「ときには深く考えることも必要」だと思う。

「信念が強すぎると柔軟性にかける」ことになる。
「万人に受け入れられることはすばらしいが、それだけではそこで終わってしまう」。
「誰もやらないことだけをしていると、興味を示されることが少ない」と思う。

屁理屈のように聞こえるが、何に対しても反対意見が飛び交うもの。

そんな中、
「音を楽しむ」
「かっこよくある」
は、反対意見が成り立たない。必要がないのだ。
音楽をするにあたって、音を不快に思う必要はない。必要があるならば、音楽などやらなければいい。
音楽をするにあたって、かっこよくある必然性はないが、かっこ悪くする必要もない。できればかっこよくありたいということ。


では、音楽とは何か?
「音を楽しむかっこいいもの」
それだけで音楽はできるのか?

一定のラインまではできる。
それ以上(演奏や作曲など)を目指そうとすれば、無理だ。

高度な音感か、楽譜を読む力がなければ、演奏はできない。
好きでなければ、楽しめない。



 私は作曲家を目指してきたが、ここ数年ずっと何が作曲家で、自分が何をしたいかわかっていない。少しずつわかりかけてきた気もするが、まだぼんやりとだ。

私の場合、

作曲家になりたい
なぜならかっこいいすごいといわれる。自分の満足度につながる、自分への癒しである。
さらに、人に満足してもらいたい共感してもらえる自分への満足癒しとなる。

こう考えていた。

仕事にしたいということもあるが、それは、できることならば、であり、絶対ではないと思える。

私はプロになりたい、と思っていた。しかし、プロの定義があいまいである。
世間では、「それで食べて生活している人」が、プロと呼ばれるらしい。
しかし私は昔から、プロとは「プロフェッショナル、プロフェッサーなどで、その道の達人」だと思っていた。
どちらが正しいかはわからない。誰かが正しいといっても、それはその人の意見でしかない。結果的にはどちらでもいいことになる。
だから私は、自分の考えで、「その道の達人」をプロと今も思っている。

私の人生の第一の目的は、

「平穏で幸せであること」

である。

そのために音楽が役に立てばと思っていたが、音楽を学ぶ過程でどんどん自分の道をそれてしまったらしい
ごく最近の目標は、音楽出版事務所に所属して、劇伴作家として仕事をしたい」であった。
完全な間違いではないが、自分の根底にあるものを探ると、少々異なる。

私は、以前結婚しようと思ったことがあった
その人と一緒にいられるならば、別に作曲の仕事など必要ない。あればやらせていただくが、毎日音楽に囲まれて楽しく幸せならばそれでいいと本気で考えていた。だから20代の私の作曲数が少ないのである。
だがそれも結婚をしなかったことで、変わった
人生の目的は幸せであること、それはその人と過ごすことであった。しかしその人がいなくなってしまい、幸せのために音楽を楽しむ必要が出てきた

なぜそのとき音楽を選んだのか。
おそらく、自分の技術の中で音楽が一番長けていた、というのが理由であろう。
新しく何かを極めようとする気力はもう無かったのである。

ところが、音楽を極めていくことは、想像以上に難しい。
仕事にすること、人に認められること、楽しむこと、自分なりにより優れた音楽活動を行うこと。
すべて満たすのは至難の業である。

それに気づかず、ここ数年音楽を極めると努力していた。

去年音楽(作曲)をやめようと思った。

もう気力が無かったのだ。

自分で最高のできだと思った作曲でも、人に認められることは無く、作曲にかけた時間は、何の役にも立たず過ぎ去るだけ。
私は自分への癒しの為に作曲をしていたはず。自分の満足がいく曲ができるまではよい、だがそれに反して人の評価が低いと自分の満足度が高ければ高いほど落胆が大きいのである。
人の評価というのは強制できるものではないし、しようとも思わない。だが共感してもらいたい、させたい、という気持ちはある。共感してほしいだけで強制するのではない。

人の共感を得ようとするのは、贅沢ではないかといわれれば、私の希望や理想に強制を持ちかけるなと反論せざるを得なくなる。
言い争いをしたいのではない、ただ単に自分の表現した音楽を他の人にも共感してもらいたいのである。強制はしない、いいと思ってくれた人が感動してくれればそれだけで嬉しいのである。

だが私の作曲で感動してくれる人は少ない。いたとしても私の耳にはあまり届かない。
当然私は落胆する。私の大好きなラフマニノフが、第1作目でブーイングを浴び、そのごしばらく作曲ができなかったのは有名な話だ。
作曲が共感されなくて落胆するのは、当然な結果であり、決して考えすぎではないと思う。

これも、2つの意見があった。

「深く考えずにどんどん前に進むべき」
「共感を得られずとも落胆しないような曲は、もともと人を共感させる力など無い」

どちらも正しい気がする。ではどうすればいいのか。
私が選んだのは後者になる。
やはり、私の性格もあり、共感を得られないことを素通りはできない
さらには仕事ではないことが大きい。
仕事であるならば、顧客のニーズにこたえる必要がある。いちいち落胆していては仕事にならないのだ。だが今は仕事ではない。自分の作る曲が人に感動を与えなければ、今後仕事にもならないと思う。

万人が感動しなくても、一人だけでもいいのだ。仮にその一人が愛する人であれば、どれだけうれしく、救われることであろう。

去年作曲をやめようと思って、控えめな活動をしてきた。
結局やめなかった。今後もやめるつもりは無い

だが、作曲の目的や、理由は以前と異なるかもしれない。
むしろ中学時代に戻って、単にかっこいいから作曲をするという理由に戻りたい

結局自分が選んだ音楽の正体は、

「楽しむもの」
「かっこいいもの」
「自分への癒し」
「とことんやるなら信念を持つもの」
「仕事でないなら人に左右されない」

私は、万人に評価される曲を作りたいが、そのためには、信念を曲げ、自分の望まない曲も作らなければならない可能性がある。

だが、信念を曲げて曲を作るほうが人に評価されない事よりも苦痛であることに気がついた。

この10年間、人に左右され(他人のせいではなく自分が弱かったのだ)、自分の音楽を見失い、万人に共感してもらえる曲を、万人から意見を聞いていたのだ。

万人の意見が同じわけがない。そんな状態でオリジナルの作曲などといえたものではない。
万人が求める、いや、求めた曲は、これから創造される曲などではない。

順番が間違っていたのだ。
(仕事でないなら)人の意見で曲を作るのではない。自分の曲で人の感想を作るのだ。
その感想が自分に沿わない内容ならそれはそれでいいではないか。
自信過剰と思うなら思えばいい。自信のない曲を作るほうがよっぽど無意味だ。 

自分の感性のみで作られた曲が、1人でも共感してくれたとき、初めてオリジナル作品と呼べるのではないだろうか。その人数が多ければ多いほど、世間では「名作」と呼ばれるだけのことだ。

名作を目指したければ、曲に入り込む感性が自分のものであることが一番大事である。他人の意見を取り込むのもよいが、それは自分が感じた他人の意見であるべきであり、そのまま他人の意見を曲に反映させるのは、もはやオリジナル作品ではない

「作曲とは、自分自身が感じたことを、自分自身の魂と技術で表現することである。」

みな、それぞれ自分の意思で音楽を楽しめばよいと思う。これが正しいなどという音楽はない。
上に述べたものは私自身の思想である。

「私は一人でも多くの人が、私の作曲を、それがどんな作品であれ、共感していただければ光栄である。」




私がこのような思想を持つに至った2人の友人に感謝します。

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